1905年(明治38年)2月 2日午後3時頃、ヴォーリズは、滋賀県立商業学校(現八幡商業高等学校)へ赴任するため、八幡駅(現近江八幡駅)に到着した。 日本ではその頃最も寒い時期であり、その日も北風の吹く薄暗い曇った日だと記録されている。
滋賀県立商業学校は、1886年(明治19年)に現在の大津市に開校し、1901年(明治34年)現在の近江八幡市に移転したのである。
全国で10番目、滋賀県では最初の商業学校であった。
この学校の特色は、行商による実地教育と朝鮮や満州旅行、卒業後の海外雄飛の気風、中国語教育にあり、創立以来、外国人教師の雇用もその一つであった。 ヴォーリズは外国人教師の12人目にあたり、その存在は2年余りであった。他の外国人教師の存任期間は2ヶ月から4年とさまざまであったと伝えられている。 大正期に2人が来任し、1人のアメリカ人教師は6年近くも在職した。国籍は英米各7人ずつであった。
これら外国人教師全員がYMCA関係の教師であったわけではない。 ヴォーリズのような「青年会英語教師」は「青年会英語教師の協約」に基づき来日しており、これと同時に校長、つまり県と「約定のメモランダム」を締結していたのである。日本側の条件として、次の3点がアメリカ側にもたされたのである。
ヨハネによる福音書17章21節
1.日本語の知識なしに英語教授の機会が与えられる。
2.授業以外の時間で、もし生徒が希望するならば、自由に聖書を教えてもよい。
3.旅費は支給されないが、それを誰かに立て替えてもらえば、支給されるサラリーのよって適当な時期にそれを取り戻せばよい。
「ヴォーリズ在任の頃の滋賀県立商業学校の学課過程は、予科1年、本科4年からなっていた。彼は、主として本科1年から4年の英語の読み方(リーダー)と会話を担当し、作文、書き取り等を適宜混じえて教えた。当時の英語教師は、主任の雨田忠左衛門、教諭吉崎健太郎、助教授宮本文治郎、それに雇教師ヴォーリズという陣容であった。宮本は本校卒業後助教諭として母校に残っており、ただ一人のクリスチャン教師として、ヴォーリズを助けることになったのである。(中略) ヴォーリズは授業にカメラを持参して生徒を写したり、クラスを二分して英語のスペリングマッチを試みるなど、生徒たちの興味を喚起することに努めた。
それらは、今日では当然の教育活動だが、当時の旧制中等学校の教師は教科書と黒板の授業が普通だったから、ヴォーリズの教え方は生徒たちに新鮮な感じを与えたに違いない。また彼は放課後生徒たちとよく散歩し、テニスをした。 そして、下宿でバイブルクラスを開き、ともに聖書を学び純潔な生き方を教えたのである。
彼のこれらの熱心な活動は、ピューリタン的生育環境と、彼がそれまで受けてきたキリスト教の人格教育の当然の結果であったろう。 盛況を示したバイブルクラスのことを含めて、当時のSVM教師の仲間でこれほど熱心にキリスト教教育を推進した者はいなかったと言える。
ヴォーリズはバイブルクラスに集まった生徒たちを中心とし、1905年(明治38年)10月6日『滋賀県立商業学校基督青年会(YMCA)』を発会した。 京都YMCAのフェルプス主事(G.S.Phelps)を招いて講演会を開くなど盛会であったが、其の背後には安場校長の理解があったものと考えられる。校内のYMCAはクラブ活動として公認されたが、県立学校でキリスト教講演会を開くことは問題になりかねない事柄であったからである。 フェルプスはヴォーリズの来日以来一貫して、彼を支え、彼もまたしばしば京都に出かけて支援と助言を得ていた。
当時300人余りの生徒の中で、その3分の1にあたる者が、着任間もないヴォーリズのバイブルクラスやYMCAに参加していたのは驚くべきことであり、反面、それを快く思わない人々が現れたのも当然の成り行きであった。」
※上記「 」内は『ヴォーリズ評伝』(奥村直彦著)2005年(平成17年)より引用