ヴォーリズの家系を宗教という面から見ると父方はオランダ系の新教徒、母方はニュー・イングランドの清教徒であった。 母方の祖父は農業を営む敬虔なクリスチャンで、晩年には「自発的に、奉仕的に副牧師」となった人で、 その祖父を尊敬する父母に連れられて日曜ごとに教会礼拝に出席することは幼少期からのヴォーリズの習慣であった。
しかし、ヴォーリズは教会生活から、必ずしもいわゆる宗教的情感を単に高められたというだけではなく、 意外にも絵画と音楽に導かれ、それらが「互いに作用し合うように、建設的な影響を及ぼしていった」と述べている。 さらに「両者は、私の生涯を決定する原動力となり、制し切れぬ迫力をもって、私を建築界と外国伝道とにかり立てていった」とまで述べている。 その結果ヴォーリズの全人生の集大成として出来上がった「近江兄弟社なる団体」は「独立自給的・多角的・民主的キリスト教運動」という「ただ珍しい同労者の一団となった」と分析している。
ヴォーリズは、高校卒業の段階で、マサチューセッツ工科大学(MIT)に進学し、建築家になることを決意している。 実際、彼はマサチューセッツ工科大学への入学許可を得ていたのであるが、 コロラド大学で1年だけ学んだ後に転入学できるという好条件を与えられていたことや経済上の理由により、まずはコロラド大学に席を置くことにした。 しかし、入学直後に同大学学長代理ノイス教授のアドバイスを受け入れ、専科生ではなく正規生となった。 このことをヴォーリズは「不思議なことに、この決定が、後年私の全生涯の方向を転換させるにいたった、数々の要素に適合していった」と述懐している。
ヴォーリズは、1年生時から学生YMCAの奉仕活動に身を置き、2年生時には会計係に任命される。 年度当初の集会で、会員に寄付を督促する演説をすることになり、聖書の中にある、 貧しい寡婦がイエスに持ち合わせた全ての金額を捧げた話(マルコによる福音書12章41~44節・ルカによる福音書21章1~4節)をとりあげ、 「容易に都合のつく」金額ではなく、「個人的な必要を犠牲にするのでなければ・・・」と訴えた。その結果、例年以上の寄付を集めることに成功している。 その功績が、結果として、彼をカナダのトロントで開かれた学生伝道隊運動の世界大会派遣へと導いた。
彼は、コロラド州からの唯一の代表という重責を思い、帰ってからの報告のために、盛りだくさんのプログラムの全てに主席する決意で大会に臨んだ。 しかし、彼は 「私の進むべきコースは、すでに決まっており、建築家になるつもりでいたからである。もちろん、私は外国伝道に対しては強力な支持者になる決心であった。」 と記しており、この時点では、外国伝道に献身するという選択肢はなかったのである。
そのヴォーリズに、外国伝道を決意させた直接の引き金は、言うまでもなくマッセイ(Massey)ホールでの衝撃的な「召命」である。
1900年に中国で起こったキリスト教宣教師らの大虐殺事件は、「義和団事件」として世界に衝撃を与えるが、 この事件にまきこまれ、夫を殺され、自らも瀕死の重傷を負ったハワード・テーラー夫人が、この大会の講師の一人であった。
暴徒が中国からすべての外国の勢力を駆逐しようとしてキリスト教信者に対し暴力を振るい、多くの信者がキリストの御名のために殉教の死を遂げたことを、 彼女が静かな語り口で話した時、満席の大講堂の会衆は水を打ったように静まりかえったのである。
ヴォーリズは、その「召命」の瞬間を次のように語っている。
「ある瞬間、その講師の顔は、キリストの顔に変わり、キリストご自身が、壇上からその愛のまなざしをもって、
私の心を刺しとおし、私に『お前はどうするつもりなのか」と尋ねていらっしゃるように感ぜられた、
この幻は、ほんの瞬間に過ぎなかったが、その感化は、いまもなお私の中に、はっきり残っている。」
最後に夫人は、「私には主イエス以上に尊く大切なものはありません。何一つありません。 あなたにはありますか。キリストご自身を得るため、あるいは人々の霊魂の救いというキリストの尊い業に従っていくために、 自ら喜んで一切を投げ出すことを妨げている何かが、今日ただいま、あなたの心の中に、あるいはこれからのあなたの人生の歩みの中にありますか。」と問いかけて結んだ。
この時ヴォーリズは、「『真のささげ物』をささげて。『真に神の国に尽くす者』になろう」と演説しておきながら、実際にはそうではない、 偽善にみちた自分の姿がさらし出されるのを感じたのである。まるで、キリスト自身が「絶対無条件で私に従うか」と迫っておられるかのように・・・
ヴォーリズは、「一時の感激で、軽々しく署名」することを恐れて、会場で伝道隊学生志願の決心カードを記入せずに帰るが、 その後も決意はいっそう強まり、郵送でこれを提出する。 この時、「私が外国伝道に派遣される場合には、今まで宣教師の行ったことのない、今後も外国伝道団が手をつけそうもないような所へ行って、 独立自給で神の国の細胞を作ってみたいということを書き添えた。」のであった。
こうして長年思いつめていた建築家志望を断念し、大学3年次から哲学科へ転籍した。 しかし、宣教師となるために神学校の課程を修めることはしていない。 なぜなら、彼は「私に与えられた使命は、むしろ種々な職業を通して、人間生活基準となるような、キリスト的生活の徹底的な実践にあるということが、明らかになってきた。 なぜなら、世の多くの実業家や、農、工、その他に従事する人々は、ある特殊な職業は別として、自分たちのような仕事の中で、キリスト精神にしばられては、 とても満足な世渡りができないということを考えたり、語ったりしているが、はたしてキリストの精神が一般の生活に適用できないか、自分が一つ実験してみたいと考えた。」からである。
「こうして、徐々に、将来の近江兄弟社となるべき事業の輪郭を、幻のうちに見るようになり、ついに大平洋を越え、 日本内地の田舎、ナザレにも例うべき近江八幡に導かれるに至ったのである。」と述べている。
ヴォーリズが乗ってきたチャイナ号
ヴォーリズが来日した頃の近江八幡駅